こんにちは、九州支部メンバーのリョービンです。
最近、ある本を読んでいて「体系知」というものを知りました。
コロナ禍を経て、今の日本に足りないのはこれではないか?と感じたので、今回はこの「体系知」について書いてみようと思います。
先日小林先生がブログで書かれていた「総合知」につながる概念であると思います。
さて、「体系知」とは何でしょうか。字面で何となくわかるとは思いますが、単なる断片的な知識ではなく、それらが結び付け体系になったもののことです。
これは、ドイツの神学者であるシュライエルマッハー(1768~1834年)が考えていた概念になります。彼は、知識は体系的なものでなければ意味がないと考えていたのです。
彼の(学問に対する)思想についてもう少し詳しく覗いてみましょう。
さて、シュライエルマッハーがベルリン大学の教授だったころ、ドイツでは大学改革の嵐が吹き荒れていました。フランスのような強い国になるには、役に立たない文学や哲学といった人文系の学問をやめて、実学に変えるべきだという主張が出ていたのです。
しかし、シュライエルマッハーはこれに反対します。大学とは役に立たないことをやるところであって、実学だらけになったらかえって学問の力が弱り国家にとってマイナスなると主張したのです。
彼は、学問的思索とは、「個別的な知識がどのように関係し、全体の中でどのような位置を占めるか」を認識することだと考えていました。そして、専門課程に進む前に教養科目をしっかりと修めれば共通の基盤ができ、様々な学問のつながり、体系知を身に着けることができると主張しました。
結果として、ドイツはシュライエルマッハーの意見を採用し、実学とは距離を置くようになりました。
ここで重要なのは、実学を重んじすぎると学問の質が下がること、専門分野に進む前に教養科目をしっかり押さえ体系的な物事の考え方を身に着けることが必要であること、そしてそれは役に立つ立たないを基準でとらえてはいけない、ということだろうと思います。
以上を踏まえて、今の日本社会をみるとどうでしょうか。
残念ながら、シュライエルマッハーが主張したような教育のあり方になっていないのが現状ではないでしょうか。
そして、実学を重んじ体系知を軽んじた結果が、今回のコロナ禍で如実に表れたのではないでしょうか。
コロナ禍において、私たちは、自分たちの知識を体系的にとらえ、発信することができない専門家たちを数多く目にしてきました。
彼らは、自分たちの専門分野は得意だけれども、それが日本社会全体においてどういう位置を占めているのか、どういう形で他の分野と関わりあっているのか、をうまく捉えることができていなかったように思います。
その結果、「確かにその分野に限ってみれば正しいようだけれども、全体としては何かちぐはぐ」な論説がまかり通るようになりました。
そして、体系知を身に着けていない専門家たちはそのちぐはぐさを認識できなかったのではないでしょうか。
もちろん、これは専門家だけでなく、それを指摘できなかったメディアも同様でしょう。
これは感染症だけでなく他の学問分野にも言えることで、当然私たちにも当てはまることかもしれませんから、よくよく気を付けなければならないことだと思います
では、そうならないためにはどうすべきか。
私は教育の専門家でもなんでもありませんが、ひとつ答えを出すのであれば、自分たちの専門以外にもしっかりと目を向け、しっかりとした教養を養うことではないでしょうか。
そのためには、今自分たちが見ている世界から少し離れ、もっと俯瞰的に眺める視点が必要です。
ネットはそれこそ断片的な知識の宝庫ですが、体系的に何かを学ぶのは少し向いていません。また、自分たちに興味のある、関連のある内容ばかりが出てくるので、そこから抜け出すのが時に困難な時があります。
人が陰謀論にハマるとなかなか抜け出せないのはそれもあるでしょう。
それこそ陰謀論は断片的な知識を寄せ集めて作り上げられたストーリーです。客席から見ると「それっぽい」のですが、体系的ではないため、舞台袖から見るとそのちぐはぐさが露わになってしまいます。
私としては、やはりネットではなく、いろんな分野の本をしっかり読むことが重要ではないかと思います。書籍の場合は一人の著者が書いていますから、体系的といえるでしょう。
また、佐藤優さんは手元に百科事典があるとよいと言っていました。何かを調べるとその意味だけでなく、成り立ちや歴史背景も載っていて他の分野との繋がりを学ぶことができるためです。
まあ、方法は何であれ、少なくともメディアに露出する専門家や政治家は、体系知をしっかり身に着けて発言してほしいなあ、と思います。
参考文献 『読む力を鍛える』佐藤優著 PHP文庫