新春オドレらで考えたこと

こんにちは、九州支部メンバーのリョービンです。

先週の新春オドレら、面白かったですね。新春オドレらを見て、いろいろ考えたことをまとめてみました。

 

まず、先日の新春オドレらで、コロナ禍で苦しんでいる人々に対して冷たいのは自己責任論のまん延が大きな原因ではないか、というのは個人的に大きな示唆を与えてくれました。

小さい政府になると国や行政は手厚い支援をしてくれず、リスクについては自己責任で対応してください、となります。でも、個人でできることには明らかに限界があるし、人は皆そんなに強くありません。

 

しかしコロナ禍で奇妙なのは、自己責任論がまん延している一方で、国や行政による国民生活への介入が露骨に行われ、国家権力の拡大、大きな政府を求める大衆が多くいることです。これはどうしたことでしょうか。

 

思うのですが、そもそもコロナ対策について、国からのメッセージがないと動けないというのはあまりにも幼稚すぎます。

自己責任といいながら、当の本人が自分で考えて責任をもって動くことができない。

いや、責任が取れないから、政府に頼ってしまうのかもしれません。

政府のやり方に従っておけば、何かあってもすべて政府のせいにできるわけですから。

 

集団の中に入ってその中のルールに順応していれば、自分は責任を取らないで済むからすごく楽です。そして、自分たちの集団とは違う人間に対してみんなでバッシングするのはすごく心地よい。

これって、典型的なファシズムではないでしょうか。

つまり、自己責任論がかえって大衆の国家への従属につながっているという構図です。

 

 

私は最近考えるのですが、コロナ禍をはじめとする危機に対抗できるのは、政府がなくても互いに支えあえる相互扶助のあり方ではないかと思います。いわゆる、クロポトキンやプルードンが提唱した社会主義的アナキズムです。

そしてこれは、国家の強権発動に対する処方箋にも成りえます。

なお、ここでいうアナキズムとはニヒリズム的な無政府主義とは異なります。

 

松岡圭一郎氏は「くらしのアナキズム」という本の中で次のように述べています。

『どんな時代も、生活者が社会を支えてきた。

 政治家や大企業の経営者が世の中を動かしているわけではない。

 彼らがやっているのは政治でも、経済でもない。

 それらは生活の中にある。

 そんな自覚をもてなくなったことが、この社会が機能麻痺に陥っている一因なのでは 

 ないか。 』

 そうです、社会を支えているのは名もなき市井の人々です。政治家ではない。

 

今の日本に欠如しているのは、この感覚ではないでしょうか。

政府がないと、政府が何とかしてくれないと社会が崩壊するという感覚を何となく持っている。そのせいで、政府の方針に従ってしまう、飲食店が潰れても何とも思わない。

でも、そうではない。実際、災害で行政が一時機能不全に陥っても、私たちは互いに助け合うことで乗り越えてきています。

 

これは、今までなかった新しい概念ではなく、新自由主義によって破壊されてしまった共同体再生のあり方に近いでしょう。

新自由主義は、社会のあらゆる関係を商品化し、相互扶助の関係性を貨幣・商品関係に置き換えてきました。しかしその結果、危機において不安にかられた人々は自分でどうすることもできず、かといって隣人を頼ることもできずに、結果として国家に頼ってしまいました。

 

残念なことに、国家権力は時に誤ります。私たちの生活の隅々まで目を配ることはできません。

むしろ、コロナ禍において、政府の横暴によってこの社会を支えている生活が脅かされています。そうであれば、人々が連携して行動を起こすこともありえるのではないのでしょうか。

もちろん、これはコロナ禍だけに限りません。例えば、フランスの黄色いベスト運動はこの感覚の延長線上にあるといいます。

 

憲法だって皇室だって、私たちの生活と密接につながっています。政治家に任せておけばよいものではない。

まだクロポトキンの本を読んでいない私が言うのもなんですが、今後、模索していく形ではないかと思いました。

 

 

引用・参考文献

田野大輔『ファシズムの教室』 大月書店

佐藤優・富岡幸一郎『危機の日本史』 講談社

中島岳志『思いがけず利他』 ミシマ社

松岡圭一郎『くらしのアナキズム』 ミシマ社

斎藤幸平『人新生の「資本論」』 集英社新書